第4話 あと数分

「次は、十月一日だそうです」

 九月十八日の午後。刑事課の窓から、乾いた風が入ってくる。蝉せみの声は、もうどこからも聞こえなかった。

 理沙りさは誠一せいいちの机の横に立っていた。

「画廊の扉に、貼り紙が出ていました。『次回 十月一日より』。誰の写真が掛かるのかは、書いてありません」

「俺も昼に、車から読んだ」

 誠一は老眼鏡を掛けて、手帳を開いた。「十二日」と書いた頁ページだ。

「水野みずの。佐伯さえきさんが亡くなったのが、八月二十日。名前が掛かったのが、九月一日だ。あいだは」

「十二日です」

 答えが速い。

「数えたのか」

「数えました。九月一日の夜に」

 ――同じ日に、同じことをしてやがった。

「次が十月一日なら、そこから十二日戻す」

 誠一は指を折りはじめた。両手を折りきって、もう一本――。

「九月十九日です」

「……数えさせろ」

「失礼しました」

 二本目を折った。九月十九日だった。

 壁の日めくりは、十八日。

「明日だ」

「明日、どなたかが処理されるということですか」

「まだ分からん」

 胸がざわついた。誠一は新しい頁を開いて、まん中に横線を一本引いた。

「上の段は、確かなことだ。見たものと、読んだものしか書かねえ」

 八月二十日 死亡

 九月一日  展示

 十月一日  次の展示

「下の段は」

「推測だ。考えたことは、下に落とす」

「分けるのは、なぜですか」

「同じ行に書くと、あとで自分の字にだまされる」

 昔の件で、覚えたやり方だった。

「では、九月十九日は」

「下だ」

 下の段に日付を書いて、丸で囲んだ。大きな手で引いた丸は、いびつになった。

「名前が掛かる十二日前に、人が死ぬ。そうなったのは、まだ一回だけだ。だから下に置く」

「十二日というのは、何の日数でしょうか」

「写真を、壁に掛ける大きさに焼く日数らしい。葉月はづきの行く店の袋に、そう刷ってあった。どこの店でも、そのくらいはかかるんだろう」

「数は、合います」

「合ってるのは、数だけだ」

 どこで起きるのか。誰なのか。それは分からない。

 誠一は頁を八月まで戻した。端のほうに、電話の番号が一つ書いてある。

 三浦みうら佳乃よしの。佐伯千尋ちひろの友だちだ。雨の日に、謝りに行った誠一に麦茶を出してくれた。

「佐伯さんのまわりで、俺が顔を知ってるのは、この人だけだ」

「かけるんですか」

「何もなくてもかまわねえ、と言ってある。こっちからかけても、ばちは当たらんだろう」

 受話器を取って、番号を押した。

 呼び出しの音が、十回鳴った。誰も出ない。

「お仕事中かもしれません」

「んだな」

 そう言いながら、誠一は丸の横に書いた。

 朝 三浦佳乃

 九月十九日の朝。呼び鈴は一度だけ押した。

 扉の向こうからは、足音も、ミシンの音もしなかった。

 二度目は、押さなかった。朝の七時に刑事が何度も鳴らせば、八月の須田すだと同じことになる。誠一は名刺を一枚、郵便受けに落とした。

 八月の夜、誠一は扉の前で六分を使った。鍵がどこにあるのかを、知らなかったからだ。

 今日は先に確かめておく。

 大家は坂の下のたばこ屋だった。前掛けをした女が、小窓の奥に座っている。

「警察の、柴崎しばさきといいます。坂の上のアパートの鍵は、こちらですか」

「ええ、うちで預かってますけど。……何か、あったんですか」

「何もありません。何もないうちに、お願いに来ました。もしものときは、三浦さんの部屋の鍵を借りに来ます」

 女はうしろの柱を振り返った。釘に鍵が六本下がっている。

「左から二本目です。店は、夜の七時まで開けてますから」

 昼に一度、署の電話からかけた。出ない。向かいの理沙の机は、昼すぎから空いていた。

 四時半、誠一は車の鍵をつかんだ。何も起きていない。それでも、坂の近くにいたかった。

 無線が鳴ったのは、川沿いの道だった。

「通信指令から各局。自殺をほのめかす内容の通報あり。対象は三浦佳乃、女性――」

 声が町の名前を読み上げる前に、誠一は助手席の赤色灯をつかんでいた。窓から腕を出して、屋根に載せる。

 時計は四時四十八分。

「柴崎、向かう! 救急車を、同時に頼む!」

 八月の夜、救急車は誠一よりあとに着いた。今日は同時に走らせる。

 サイレンのスイッチを入れた。四時四十九分。音が町へ広がっていく。

 西日が正面から差していた。前のバスが左へ寄る。歩道で、ランドセルの子どもが耳を押さえた。

 サイレンは、車より先に坂の上へ届く。

 ――待ってろ。今、行く。

 八月に走ったとき、誠一は名前しか知らなかった。

 今日は声を知っている。「抜けなくて」と言ったときの指を知っている。

 まだ分からん、と口に出そうとした。言葉が出てこなかった。汗でハンドルが滑る。

 たばこ屋の小窓は開いていた。中に誰もいない。

 柱の釘の、左から二本目が空いている。

「……どこ行った!」

 待っている時間はない。誠一は車の道を回って、坂を上がった。アパートの前でサイレンを切る。四時五十六分。

 階段を駆け上がって、呼び鈴を押しつづけた。

「三浦さん! 柴崎です! 開けてください!」

 取っ手は、回らなかった。

 扉をたたいた。紺の背広の袖が、鉄の扉にこすれる。

 雨の日には、この扉の向こうで、鎖の外れる音がした。今日は何も鳴らない。

 通路の端から、下をのぞいた。石段を、たばこ屋の女が上がってくる。手に鍵を握っていた。

「サイレンが、聞こえたもんだから……持って上がったほうが、早いと思って……」

 誠一は石段を駆け下りて、鍵を受け取った。礼を言う余裕もなく、鍵を差した。

 一度で回って、扉がそのまま大きく開く。鎖は掛かっていない。壁の金具から、まっすぐ下がっていた。

 五時ちょうど。アイロンを当てた布の匂いがした。雨の日と同じ匂いだ。

「警察の方、下がって!」

 救急隊が、奥へ入っていく。

「三浦さん! 三浦さん、聞こえますか!」

 誠一は通路の壁に、背中を付けた。その声の続きを、もう知っていた。

 声が数を数える声に変わる。一、二、三、四。

 坂の上の土の道を、人が下りてきた。白いシャツに、結んだ黒い髪。

 理沙は誠一の横で止まった。靴の先が白く汚れている。

「遅くなりました」

 担架が二人の前を通った。理沙の唇が、一度だけ動く。声は出なかった。

 救急車が出ていったあと、誠一は一人で部屋に入った。

 部屋は片づいていた。

 窓ぎわの机に、ミシン。その横に本が三冊積んである。いちばん上の表紙に、付箋が貼ってあった。「返す」と書いてある。

 壁には、紺色のスカートが吊つるしてあった。

 裾に白い点がない。

 しつけの糸は、抜いてあった。抜いた糸は、針山の横に、小さく巻いて置いてある。

 ――抜けなくて。

 そう言った人だった。その人の指が、この糸を一本ずつ引いたのだ。

 喉の奥が、熱くなった。誠一は息を吸って、こらえた。目は巻いた糸から離せない。指の先ほどの、小さな白い輪だった。

 鍵は先に確かめた。救急車も同時に呼んだ。朝にも来た。

 ――それで、これか。

「どんな方でしたか」

 戸口で理沙が訊きいた。

「……麦茶を出してくれた。謝りに行った刑事にだ」

 理沙はそれ以上訊かなかった。

 付き添った巡査から電話が来たのは、六時を過ぎてからだ。

「医者は、何時だと言ってる」

「四時五十分ごろ、だそうです」

 誠一は軒の明かりの下で、手帳の上の段に書いた。

 午後四時四十八分 通報

 午後四時四十九分 サイレン

 午後四時五十分ごろ 死亡 医師の話

 午後四時五十六分 着

 午後五時     開扉

「扉の前は、四分です。八月より、二分縮みました」

 横から、理沙が言った。

「縮めて、これだ」

 誠一は三行目に指を置いた。

「着く六分前に、終わってた」

 翌朝、署は何も動かなかった。

 殺人なら、署のいちばん上の階に捜査本部ができる。誠一は朝、階段を上がって見てきた。その部屋は、暗いままだった。

「処理されました」

 理沙が言った。右手が腕時計に重なっている。

「解剖には、回らないそうです」

 誠一は手帳をつかんで、一階へ下りた。

 真壁まかべは書類を、一行ずつ指で押さえた。

「扉には、鍵がかかっていました。部屋に、争った跡がありません。体に、人の手が加わった跡がありません。本人が、死にたいと知人に連絡をしています。四つです」

 四つのうちの一つ、鍵がかかっていたと書いたのは、誠一自身だ。

「真壁さん。これを見てください」

 丸のついた頁を、机に置いた。真壁は上の段を読んで、下の段を読んだ。

「丸は、おととい付けました」

「日付は、合いました」

 真壁の声は、平らだった。

「ただ、柴崎さんの手帳でも、この日付は下の段にあります。私の書類に書けるのは、あの部屋と体にあったものだけです」

 言い返せなかった。下の段に書いたのは、自分だ。

「体は、きょうの午後、ご家族にお返しします」

 返した体は、もう誰も調べない。

 夕飯はさんまだった。

 網戸の外で、雨が庇ひさしを打っている。理沙がおろした大根が、小さな鉢で三つ並んでいた。

「お父さん。きのうの人のこと、訊いていい?」

 葉月は箸を置いていた。

「もう、調べ終わったの」

「終わった」

「一日で?」

「体を見る人がいる。部屋も見た。それで、決まった」

「でもお父さん、八月と同じ顔で帰ってきたよ。私、それを撮った。終わったんなら、なんでその顔なのか、分かんない」

 雨の音がした。

「ドラマだと、もっとちゃんと調べるでしょ。亡くなった人の体を」

 葉月は誠一の顔を見ていた。

「なんで解剖しないの」

 誠一は口を開けた。

 真壁の四つは、頭に入っている。鍵。部屋。体。連絡。

 だが、娘に言える言葉は、その中に一つもなかった。

 ――俺が、いちばん訊きてえんだ。

 口はそのまま閉じた。

「……ごめん。ごはん、冷めるね」

 葉月が言った。理沙が黙って立って、味噌みそ汁の椀を温め直した。三人は黙って食べた。

 皿が下がると、誠一は流しに立った。

 茶碗を洗う。洗い終えた茶碗を、もう一度洗う。水がだんだん冷たくなっていく。

 隣に理沙が立った。何も言わずに、ふきんを取る。誠一の手から茶碗を受け取って、拭いた。

 同じ茶碗が、もう一度回ってきた。理沙はもう一度拭いた。

 うしろで、葉月が小さく笑った。すぐにやめた。

 夜、誠一は廊下で手帳を開いた。玄関の明かりが、ここまで届いている。下駄箱の上で、カメラの赤いストラップが垂れていた。

 八月の頁の端に、電話の番号が一つある。雨の日に、あの人が自分の口で言った番号だ。

 何かあったら、かけてください。そう言ったのは、誠一のほうだった。あの人はかけてこなかった。

 線を引いて、消すつもりだった。もう、誰も出ない番号だ。

 ペンの先は、紙に付かなかった。

 誠一は太い指で、数字を一つずつなぞった。

 なんで、と娘は訊いた。