第3話 死者の名前

「柴崎しばさきさん。見ていただきたいものがあります」

 九月一日の昼前。水野みずの理沙りさが、誠一せいいちの机に葉書を一枚置いた。

 白群びゃくぐん 連作『佐伯さえき千尋ちひろ』

 ほかには、会期と地図しか刷っていない。

「……佐伯千尋」

「はい。八月二十日の、佐伯さんです」

 鍵の束を握って、六分。あの扉の向こうにいた人の名前だった。

「上の二文字は、何て読む」

「びゃくぐん、だそうです。青い色の名前です。撮った人の名乗りだと思います」

「本名じゃねえんだな」

「はい。自分の名前は、出していません」

 理沙の声が、少し低くなった。

「出しているのは、佐伯さんの名前だけです」

 誠一は椅子の背から、紺の上着をつかんだ。

 画廊の扉を押すと、冷房の空気が首に当たった。蝉せみの声が遠くなる。

 壁は白かった。天井の明かりも白い。

 額は正面の壁に掛かっていた。

 若い女が写っている。誠一がこの顔を見るのは、二度目だった。一度目は二十日の夜で、担架の上だった。

 写真の女は、目を開けていた。

 額の下に、小さな札がある。

 佐伯千尋

 名前は活字になっていた。細くて、きちんとそろった字だ。

 誠一は、あの鉄の扉の郵便受けを思い出した。紙の名札に、手書きの丸い字で「佐伯」。あの部屋で暮らしていた人が、自分で書いた字だ。

 名前は親が付ける。家族が呼ぶ。友だちが呼ぶ。坂の上の部屋で、三浦みうら佳乃よしのは「千尋」と呼んでいた。呼べば、振り向く人がいた。

 その名前が、知らない人間の手で、壁に貼ってある。

 ――誰に断って、掛けた。

 腹の底が、熱くなった。冷房の中で、そこだけが熱い。

 誠一は両手を、上着のポケットに入れた。中でこぶしを握る。裂けた手袋が、指のあいだでつぶれた。

 年配の夫婦が、隣まで来た。妻が札に顔を近づける。

「さえき、ちひろ、さん。きれいなお名前ね」

「そうだな」

 二人は写真を見上げて、やがて出ていった。

 あの二人は知らない。この名前の人が、もう返事をしないことを。

 ポケットの中で、爪が手のひらに食いこんだ。痛かった。痛いほうが、まだ黙って立っていられた。

「柴崎さん」

 理沙は半歩うしろに立っていた。

「つながっています。佐伯さんが亡くなったことと、この額です」

 低い声の、早口だった。

「撮った人は、佐伯さんの名前を知っています。亡くなったことも、知っているはずです。処理された方の名前が、題になっています」

「知らずに掛けた、ということもある」

「あります。ですが、葉書は今日より前に、この方の名前で刷られています」

 理沙が受付のほうへ歩きかけた。

「訊きいてきます」

「待て」

 理沙が止まった。

「佐伯さんの件は、事件になってねえ。警察が人にものを訊くには、理由が要る。その理由を、俺たちはまだ持ってねえ」

「……では、何があれば、理由になりますか」

「まだ分からん」

 自分の声が、思ったより硬かった。

 帰りの車の中で、理沙は黙っていた。

 膝に葉書を載せて、腕時計に右手を重ねている。二十日の夜と、同じ手だった。

 水野には、妹がいた。

 八年前に死んだ。十九だった。誰にも調べられないまま、処理された。誠一が聞いているのは、それだけだ。

 十九は葉月はづきの今の年だった。

 若い女が死んで、処理される。そのたびに水野は、八年前の一人を見ているんじゃないか。

 誠一には、そう見えた。だが、確かめたことはない。死んだ家族のことを訊かれるつらさは、誠一がいちばん知っている。

「水野。二十日の夜、佐伯さんの体を見たのは真壁まかべさんだ」

「はい」

「あの人に、これを見せる」

 理沙は葉書を両手で持ち直した。

「ありがとうございます」

 声が少しだけ揺れた。誠一は聞かなかったことにした。

 真壁亮介りょうすけの部屋は、署の一階のいちばん奥にある。亡くなった人の体を見て、死因を判断する。それがこの人の仕事だ。

 真壁は葉書の表を二度読んだ。

「腹が立ちますね」

 声は平らだった。

「亡くなって、半月も経たない人です」

「真壁さん。佐伯さんの件を、もう一度見てもらえませんか」

「柴崎さん」

 真壁は葉書を、机のまん中に置いた。

「腹は立ちます。ただ、それは題の話です。題は、誰かがあとから付けたものです。死因は、あの夜、体と部屋にあったもので決まります」

「しかし」

「分けてください、柴崎さん。題の話と、死因の話を」

 誠一は言い返す言葉を探した。見つからなかった。

 昔、一つの死を殺人に直したときもそうだった。怒ったから、直ったんじゃない。証拠を一つずつ積んだからだ。今日、誠一が持ってきたのは、葉書一枚と、握ったこぶしだけだった。

「題のほうで何か出たら、持ってきてください。そのときは、もう一度見ます」

 真壁は葉書を、理沙のほうへ押し戻した。理沙は両手で受け取って、深く頭を下げた。

 刑事課へ戻ると、窓の外が赤くなっていた。理沙は先に帰した。

 題と死因を分ける。

 題と死因を分けても、どちらの話にも入らないものが一つある。

 日付だ。

 誠一は手帳を出して、老眼鏡を掛けた。新しい頁ページに、二行書く。

 八月二十日 死亡

 九月一日  展示

 大きな手の指を折って、数える。両手を折りきって、もう二本。それで、九月一日に着いた。

 二行の下に線を引いて、書いた。

 十二日

 何の数なのかは、まだ分からん。

 九月五日の夜。葉月の手が、封筒をぱたんと伏せた。

 誠一は風呂上がりで、首にタオルを掛けて、台所の戸口に立っていた。紺の上着は、廊下に掛けてある。手帳も老眼鏡も、そのポケットの中だ。

 台所には、湯気がこもっていた。網戸の向こうで虫が鳴いている。テーブルの角で、葉月と理沙が頭を寄せていた。

 葉月の手のひらの下に、小さな白い封筒がある。

 葉月は笑っていた。笑ったまま、目だけが理沙のほうへ動いた。

 理沙はまばたきを一つした。それから手もとの枝豆へ目を戻す。台所ばさみが、さやの両端を切っていく。ぱちん、ぱちん。

「何だ、二人して」

「なんでもない。お父さん、麦茶?」

 ――なんでもない、という顔ではねえな。

 だが、これ以上訊けば、取り調べになる。娘は十九だ。父親に隠しごとの一つくらい、あっていい。

 訊くなら、葉月ではなく水野にだ。

 誠一はそう決めた。

 葉月は封筒を鞄へ落として、同じ鞄から紙の袋を出した。町の写真店の袋だ。その横にカメラが置いてある。赤いストラップが、テーブルの端から垂れていた。

 袋には、店の名前の下に、もう一行刷ってある。

 大伸ばし 仕上がり12日

 太い字だった。老眼鏡がなくても読めた。

「大伸ばしって、何だ」

「大きく焼いてもらうこと。壁に掛けるくらいの大きさにするの。日にちもかかるし、高いんだよ」

「頼んだのか」

「頼んでないよ。学生だよ、私」

 袋の口が開くと、つんとする匂いがした。現像液の匂いだ。

「お父さん、手。濡れてる」

 誠一は首のタオルで、太い指を一本ずつ拭いた。

「んだば、これでいいべ」

「『それなら、これでいいだろう』。今日は長く出たね」

 はさみの音が、止まった。理沙が下を向いたまま、肩を小さく揺らしている。

「水野。笑うな」

「笑っていません。枝豆を切っています」

 葉月は写真を、テーブルに並べていった。八月の玄関だ。同じ黄色い明かりの下に、誠一か理沙が立っている。

 二十日からあとの誠一は、口は笑っていても、目が笑っていなかった。葉月は何も言わずに、それも並べた。

「あった。今回は、これ」

 一枚の裏に、小さな紙が貼ってある。細い鉛筆の字だ。写っているのは、俯うつむいた理沙だった。

「また理沙さんのだよ。読むね」

 葉月はせきばらいを一つした。

「『時計に重ねた手が、今日は静かです』」

 読み終えた葉月の耳が、赤くなった。

「……声に出すと、なんか恥ずかしいね、これ」

 写真の理沙の指は、腕時計の上に、ただ載っていた。

 こんろの前で、理沙の背中が止まった。菜箸が鍋の縁に当たって、小さく鳴る。

「手のことまでは、報告していません」

「報告しなくても、写ってるの。お店の人、ちゃんと見てるんだよ」

「見なくて結構です」

「照れてる」

「照れていません。ゆで時間を計っています。以上です」

「理沙さん、耳赤いよ」

「お前もだ」

 誠一が言うと、葉月は両手で耳を隠した。

 理沙が、枝豆の鉢を誠一の前に置いた。

「熱いです」

 さやを押すと、豆が口に飛びこんだ。塩が端からちゃんとしみている。

「両端を切ってから、ゆでたのか」

「葉月さんの指示どおりです」

「お母さんの指示どおり、ね」

 葉月が言った。

 葉子ようこのやり方だった。この五年、台所で鳴る音は二人ぶんだった。誠一が鍋を焦がす音と、葉月が皿を洗う音。今夜は、こんろの前にもう一人立っている。

 四日前、誠一は白い壁の前で、ポケットの中のこぶしを握っていた。同じ手が今は、枝豆のさやをつまんでいる。指についた塩を、なめた。

 ――このまま、いつまでも座っていられそうだ。

「なあ。毎晩撮って、どうする」

 誠一は訊いた。

「記録は、あとで要るから取る。署でもそうだ」

「うん」

 葉月は顔を上げなかった。指は写真の端に置いたままだ。

「帰ってこなくなる日のために、撮っておきたい」

 扇風機が、首を振った。

 こんろの前の理沙の背中は、動かなかった。

 誠一の指が、さやを押しつぶした。豆がテーブルに転がる。

 五年前、葉子は帰ってこなかった。葉月は十四だった。あの日、カメラは玄関に置いたままで、誰も葉子を撮っていない。

 誠一は刑事だ。水野も刑事だ。帰る時刻は、約束できない。

 ――誰が、帰ってこなくなる。

 訊けなかった。訊けば、娘に答えさせることになる。

 誠一は転がった豆を拾った。拾うあいだは、顔を下げていられた。

 扇風機の風で、紙の袋がかさりと鳴った。太い字が明かりの下にある。

 仕上がり12日

 十二日。四日前に手帳へ書いた数と、同じだった。その手帳は、廊下の上着の中にある。