第5話 三人目までは
「柴崎さん。名前が、入っています」
十月一日の午後。画廊の扉の貼り紙が、新しくなっていた。
白群 連作『三浦佳乃』
風が冷たい。誠一は扉を押した。
中は静かだった。床板が靴の下で鳴る。
正面の壁に、額が二つ並んでいた。佐伯千尋の額は、左へ寄せてある。その隣に同じ形の額が増えていた。
新しい額の下に、札がある。
三浦佳乃
隣の札と、同じ細い活字だった。
札の上には、写真がある。誠一は顔を上げられなかった。
「掛かりました」
半歩うしろで、理沙が言った。
「九月十九日から、十二日です」
まだ分からん、とは、もう言えなかった。誠一は手帳を出して、上の段に書き足した。
十月一日 三浦佳乃 貼り紙 札
字を書いているあいだは、顔を上げずに済んだ。
うしろで、扉が開いた。
学生服の少年と、黒い上着の女が入ってきた。女は誠一と同じくらいの年だ。誠一は壁ぎわへ下がった。二人が前を通ると、線香の匂いがした。毎朝、仏壇でかぐ匂いだ。
少年は額の手前で止まった。自分の靴の先を見ている。
女は一人で、額の前まで行った。札を読んで、写真を見上げる。そのまま、長いこと動かなかった。肩に、白い糸くずが一本付いている。
「痩せて」
女は言った。
「こんなに、痩せて。ごはん、食べてなかったんだ」
ひとりごとだった。女は手を伸ばして、札に指を置いた。名前が指の下に隠れた。
「私が、付けた名前です。うちでは、誰も、こんな字で書きません」
誠一は壁ぎわから出た。
「警察の、柴崎といいます」
母親は鞄から、名刺を出した。九月十九日の朝、誠一が郵便受けに入れた一枚だ。
「扉を開けてくださった方だと、署で聞きました。朝にも、来てくださったんですね」
「はい」
「朝は、あの子、生きていました」
耳が熱くなった。
あの朝、呼び鈴は一度しか押さなかった。扉一枚の向こうに、あの人はいたのだ。
「止めてほしかったです」
静かな声だった。
「朝、扉を開けてでも。あの子を、止めてほしかった」
隣で、理沙の右手が腕時計に重なった。
「誰が、この子を撮ったんですか」
「まだ、分かりません」
少年が初めて顔を上げた。写真は見ない。誠一を見た。
「あれ、外せないんですか」
声はまだ高かった。
「今は、できません」
「警察なのに」
「はい」
少年の目が、赤くなった。それでも、誠一から目を逸らさなかった。
母親は少年の肩に手を置いて、名刺を差し出した。
「お返しします」
誠一は両手で受け取った。角が一つ、折れている。名刺を手帳に挟んで、深く頭を下げた。
線香の匂いが、前を通っていく。扉が閉まっても、誠一は頭を上げなかった。耳はまだ熱い。
八月の雨の日、三浦佳乃は言ってくれた。顔を上げてください。
今日は、誰からも、その言葉が来なかった。
「撮った人は、名前を隠しています」
十月二日の朝。助手席で理沙が言った。
「貼り紙にも葉書にも、白群としか書いてありません」
「ああ。だが、額を作った人間まで隠れてるとは限らねえ」
「額、ですか」
「二つとも、同じ形だった。同じ店の仕事だ。町の額縁屋を回る」
二軒目で当たった。主人は葉書を見て、すぐにうなずいた。
「ああ、うちの額です」
「注文したのは、どなたですか」
理沙が訊くと、主人は帳面を出してきた。
「隠すような商いじゃ、ないもんで。注文も払いも、堂島さんです。商店街のはずれの、堂島画廊。写真を撮った人には、会ったことがありません」
堂島画廊は、古い石の建物の一階にあった。
中は薄暗い。厚い絨毯で、足音がしない。壁には、金色の額の油絵が並んでいる。写真は一枚もなかった。
主人の堂島慎介は、手袋をしたまま名刺を受け取った。灰色の、薄い革の手袋だ。銀色の髪をなでつけて、紺の三つ揃いを着ている。部屋は寒くない。それでも、手袋は外さなかった。
「白群という人の、本当の名前をうかがいに来ました」
「それは、申し上げられません」
柔らかい声だった。口の端が少し上がっている。
「作家から、名前をお預かりしております。お預かりしたものをよそさまへお渡しする商いは、父の代からしておりません」
「人が、二人亡くなっています。掛かっているのは、その二人の名前です」
「存じております。柴崎さま。これは、事件のお調べでございますか」
誠一はすぐには答えられなかった。
「まだ、事件にはなっていません」
「でしたら、お答えはご遠慮申し上げます」
言い返せなかった。事件でなければ、警察は相手に答えさせることができない。
「では、うかがいます」
声は誠一の前からした。
理沙だった。いつもは半歩うしろにいる部下が、誠一の前に出ていた。
「葉書を刷ったのは、いつですか。三浦さんが亡くなる前ですか、あとですか。会場は、どなたのお名前で借りていますか。額は、いくつご注文になりましたか。写真は、どなたがこちらへお持ちになりますか。お持ちになるのは昼ですか、夜ですか」
敬語のまま、ひと息だった。
「どれも、ご遠慮申し上げます」
「では、ご遠慮にならないことを教えてください。その方は男性ですか。お年は。亡くなった方とは、生きているうちに」
誠一は理沙の袖を引いた。指の先で二度。
理沙の口が、開いたまま止まった。自分の靴を見る。それから半歩、また半歩下がって、誠一のうしろへ戻った。
「失礼しました」
耳の先が、赤かった。
叱る気には、ならなかった。誠一が訊けなかったことを、この部下は全部言った。
堂島が誠一のポケットを見た。
「お手袋が、破れておいでです。お手に、合っておられない」
口の端は、上がったままだ。誠一は、はみ出していた手袋をポケットへ押しこんだ。
うしろで、扉が静かに開いた。
若い女だった。紺色の上着のボタンを、いちばん上まで留めている。女は両手で、扉をそっと閉めた。
「公募のことを、うかがいたいのですが」
小さいけれど、最後まではっきり聞こえる声だった。
堂島は女を、奥の机へ案内した。話は短かった。女は紙を一枚受け取ると、折らずに胸の前に持って、出ていった。
「公募というのは、何を募っているんですか」
誠一は訊いた。
「連作に、写る方でございます。皆さま、ご自分でお申し込みになります」
「佐伯さんと、三浦さんもですか」
「それも、ご遠慮申し上げます」
理沙が奥の机から、同じ紙を一枚取った。
「一枚、いただきます」
「どうぞ。どなたでも、お持ちいただけます」
理沙が紙を誠一に差し出した。誠一は老眼鏡を掛けた。いちばん上の欄で、目が止まる。
題(本名)
壁の札と、同じ字だった。ここに名前を書くのは、本人だ。
欄はまだ白かった。
「外で、お話しできますか」
十月三日の夕方。理沙が、誠一の机の横に立って言った。
署の裏の駐車場は、暗くなりかけていた。柱の明かりが、ついたばかりだ。
理沙は課の車の横で止まった。
「公募に、申し込みます。きのうの用紙を出します。水野理沙として行きます。警察官としては、行きません」
「堂島は、お前の顔を見た」
「どなたでも、と言いました。断られたら、そこまでです。断られなければ、撮った人に会えます」
塀の向こうを、バスが通った。
「外からは、もう訊くところがありません」
そのとおりだった。たどれたのは、堂島までだ。その先は誠一にも道がない。
「申し込んだ人間が、どうなるか。お前は、どう見てる」
「処理されて、名前が掛かります」
「そう見ていて、自分の名前を書くのか」
「はい」
止める言葉は、いくつもあった。危ない。一人では行かせられない。課長が許さない。どれも正しい。どれを言っても、堂島の口は開かない。
誠一は、上着のポケットに手を入れた。指の先に破れた手袋が当たる。
おととい、白い壁の前で言われた。止めてほしかったです。
――止めろ。今なら、止められる。
相手は目の前に立っている。腕を伸ばせば、肩に届く。きのうは袖を引いて止めた。
それでも、手はポケットから出なかった。中で、破れた手袋を握りしめていた。
「次が来る前に、撮った人間の名前を持って帰れるか」
理沙は答えなかった。早口が止まっていた。
それから顔を上げて、誠一の目を見た。
「三人目までは、間に合わなくていい」
風がやんだ。
聞き違いではなかった。理沙は誠一の目を見たままだ。敬語ではなかった。早口でもなかった。八月の玄関で、一度だけ聞いた声だった。
担架が通るたびに、声を出さずに唇を動かす部下だ。その水野が、まだ生きている誰かを、数で呼んだ。
「なぜだ」
「言えません」
敬語に戻っていた。目は逸れなかった。
逸らしたら、そこから先は訊かない。八月にそう決めた。
――逸らさねえ相手には、何を訊けばいい。
それは決めていなかった。
誠一は手帳を出して、上の段に書いた。
十月三日 水野 「三人目までは、間に合わなくていい」
聞いた言葉は、確かなことだ。だが、理由が分からない。下の段には、何も書けなかった。
「課長には、上げねえ。書類も出さねえ。何かあったら、行かせたのは俺だ」
「それは」
「決まりを言う。危ねえと思ったら、何も持たずに出てこい。名前も、顔も、要らねえ」
「はい」
「分かったことは、俺にだけ言え。口で言え」
「はい」
「帰れる晩は、うちへ帰ってこい。葉月が、玄関で待ってる」
理沙はすぐには返事をしなかった。腕時計に右手が重なった。
「承知しました」
理沙は深く頭を下げて、しばらく上げなかった。
ポケットの中の手は、まだ開かなかった。
玄関の戸を引くと、里芋を煮る匂いがした。
上がり口に、葉月が座っていた。厚い靴下をはいて、膝にカメラを載せている。首には赤いストラップ。
「おかえり。はい、笑って」
誠一は鞄を下ろして、頬を動かした。うまく動いた気はしなかった。
「お父さん、眉のあいだ。しわ」
「元からだ」
「いいよ。しわも記録」
葉月の肩が止まった。
かしゃん。
「次、理沙さん」
「ただいま、戻りました」
理沙はしゃがんで靴をそろえて、誠一の革靴の向きも直した。立ち上がると、腕時計に右手を重ねて、爪先のあたりを見る。葉月は急がせなかった。
かしゃん。
「今日は芋の子汁。お父さん、ねぎ切って」
葉月が廊下を歩いていった。
誠一は車の鍵を、木の皿に入れた。いつもなら、隣に理沙の鍵が来る。今夜は、来なかった。
理沙は土間に立ったままだった。撮り終わったのに、右手が腕時計から離れない。強く握って、指の節が白くなっている。中指に、インクの染みが一つ付いていた。
葉月はもう台所にいる。その手を見ているのは、誠一だけだった。
三人目までは、間に合わなくていい。
四人目のことを、水野は言わなかった。