第2話 目を見ずに
水野理沙は、相手の目を見たまま嘘をついた。
八月二十一日の夕方。佐伯千尋のアパートの通路に、西日がまっすぐ差しこんでいた。裏の木でひぐらしが鳴いている。
誠一は、昨夜と同じ扉の前に立っていた。当直が明けても、まだ家に帰れていない。まばたきのたびに、まぶたの裏がざらついた。
「佐伯さんとは、挨拶するくらいでした」
隣の部屋の女が言った。六十くらいの、エプロンをした人だ。
「朝、戸を開けるとね、あの子がじょうろを持って立ってるんです。おはようございますって、いつも向こうから言ってくれて」
「昨夜は、何か聞こえましたか」
「いいえ、何も。サイレンが鳴って、それで初めて窓を開けたんです」
女は通路の奥を見た。
朝顔の鉢は、昨夜と同じ場所にある。青い花が二つ、しぼんで下を向いていた。
「今朝、咲いたんですよ。二つ。水は、私がやりました」
女はエプロンの裾を、両手でぎゅっと握った。
「刑事さん。……あの子、苦しまなかったんでしょうか」
誠一は答えを持っていなかった。
分かりません、と言うのが正しい。だが、この人にそれを言うのか。迷っているうちに、隣で声がした。
「はい」
理沙だった。
理沙は女の目をまっすぐ見ていた。まばたきもしない。いつもの早口でもない。声は少しも揺れなかった。
女の肩から、力が抜けた。
「そうですか。……よかった。よかった」
エプロンの裾が、目に当てられる。
誠一は手帳を閉じた。閉じる指に、力が入りすぎた。
帰りの車には、熱がこもっていた。誠一は窓を四つとも下ろして、川沿いの道へ出た。
「水野。さっきの『はい』」
前を見たまま言った。
「嘘です」
返事は速かった。
「私は知りません。知らないことを、知っているように言いました」
「責めてはいねえ」
理沙は窓の外の川を見ていた。白いシャツの襟が、風でゆれている。
「あの『はい』は、誰も私には言ってくれなかったので」
小さな声で、風の音に半分消えた。誠一は聞き返さなかった。
――五年前、病院の廊下で、誠一も同じことを訊いた。
妻は、苦しまなかったんでしょうか。医者は誠一の目を見て、はい、と言った。
あれが本当だったのか、誠一は今も知らない。それでも五年、あの「はい」に支えられてきた。今日、隣の女が同じ言葉をもらった。言ったのは、自分の部下だ。
ありがたいのか、怖いのか。自分でも分からなかった。
信号が赤になった。誠一は車を止めて、助手席を向いた。
「お前は、人の目を見て嘘がつける。俺には、見分けがつかんかった」
「……はい」
「三十年近く、嘘をつく人間を見てきた。目が動く。手が動く。返事の前に間が空く。さっきのお前には、どれも出てなかった」
理沙は黙っている。
「嘘をつくなとは言わん。言えねえことは、誰にでもある」
誠一は一度息を吸った。
「ただ、俺にだけは、目を見ずに言え」
理沙の右手が、左手首の腕時計に重なった。
「目を逸らしたら、嘘だという合図ですか」
「んだ」
「それでは、嘘になりません」
「ならなくていい。逸らしたら、俺はそこから先を訊かねえ」
後ろの車が、短くクラクションを鳴らした。信号が青になっている。誠一はあわてて車を出した。
「……承知しました」
理沙がどこを見てそう言ったのかは、分からない。誠一は前を見ていた。
橋を渡るとき、助手席で、がたん、と音がした。
理沙が体をかがめて、座席の下の棒を引いている。座席が前へ滑った。かち、かち、かち。いちばん前で止まる。
理沙の靴の底が、ようやく床に平らに付いた。
「おい。今まで、足が浮いてたのか」
「はい」
「なんで言わねえ」
「どなたかの位置だと思っていましたので」
「誰のでもねえ」
「では、私の位置にします」
誠一は笑いそうになって、口の中で止めた。代わりに手を伸ばして、左の鏡の向きを少しだけ直す。鏡の端に、理沙の肩が映るようになった。
八月二十五日は、昼すぎから雷が鳴っていた。
刑事課の部屋で、若い刑事の須田修平が、誠一の机の前に立っていた。背中に定規でも入れたみたいに、まっすぐだ。
「申し訳ありません!」
「声がでかい。何があった」
「三浦佳乃さんの聞き込みで……怒らせてしまいました」
三浦佳乃。佐伯千尋の電話に、いちばん多く名前が残っていた友人だ。
「何を訊いた」
「最後に会ったのはいつか。変わった様子はなかったか。それから……」
須田の声が、小さくなった。
「友だちなのに、何も気づかなかったのか、と」
「一度か」
「……二度、訊きました」
「それで、戸を閉められたか」
「はい。先方から、署に苦情の電話が」
机の上に、苦情の覚え書きが載っている。責任者の名前を書く欄が、空いていた。
須田の手が、胸のペンへ動いた。
誠一のほうが早かった。その欄に、大きな字で「柴崎」と書く。字は欄からはみ出した。
「柴崎さん、それは僕が」
「行かせたのは俺だ。一人で行かせたのも、俺だ」
「でも……!」
須田は机の前から動かなかった。
「僕、警察学校で柴崎さんの話を聞いたんです。自殺で片づけられた死を掘り返して、殺人に直した。県内で、その一件だけだって。それで刑事になろうって決めました。だから今日も、何か出てくるまで訊くつもりで……」
「昔の話だ」
誠一はそれだけ言った。
あの件が語られるとき、話はいつも、殺人に直ったところから始まる。その前に何軒の玄関で戸を閉められて、何度頭を下げたか。そこは誰も話さない。
「座れ。顔が白いぞ」
須田は深く頭を下げて、自分の机へ戻っていった。
出がけに、誠一は須田の机の横を通った。うなだれた須田の手もとに、冷えた缶の麦茶が一本置いてある。さっきまでは、なかったものだ。
「水野。お前か」
キーボードの音が止まった。
理沙は顔を上げた。誠一の顔は見ないで、窓のほうを見る。雨が降りはじめていた。
「いいえ」
誠一はそこから先を訊かなかった。
――さっそく、目を逸らして言いやがった。
階段を下りながら、鼻から短く息が出た。
三浦佳乃の部屋は、坂の上の古いアパートにあった。
雨が通路の屋根をたたいている。呼び鈴は一度だけ押した。
扉が細く開いた。鎖が掛かったままだ。隙間からのぞいた目のまわりが、赤かった。
「今朝うかがった者の、上の者です。柴崎といいます。行かせたのは私です。お詫びに来ました。こちらからは、何も訊きません」
扉が閉まった。
誠一は動かなかった。髪から落ちたしずくが、襟の中へ入っていく。紺の背広の肩が、雨を吸って重くなった。
しばらくして、中で鎖の外れる音がした。
通されたのは、板の間の六畳だった。窓ぎわの机に、ミシンが載っている。針山と裁ちばさみ。壁には、紺色のスカートが一枚吊るしてあった。裾に、白いしつけ糸が点々と付いている。
「あれ、千尋のです」
佳乃が言った。
「丈を上げてほしいって、先週持ってきたんです。今度の週末に、取りに来るはずでした。あとは、しつけの糸を抜くだけで」
佳乃の指が、膝の上で、糸をつまむ形になった。
「……抜けなくて」
誠一の手が、自分の膝をつかんだ。ズボンの布が、指の下でしわになる。
「今朝の人に、気づかなかったのかって訊かれました。二回。気づきませんでした。千尋、笑ってたんです。私、口に針をくわえてたから、ろくに返事もしなくて」
雷が鳴った。窓のガラスが、小さく震えた。
「気づいてたら、裾なんか上げてません」
――その問いを、誠一は知っていた。
五年のあいだ、毎朝、仏壇の前で自分に訊いてきた。なぜ気づかなかった。なぜ間に合わなかった。答えが出た朝は、一度もない。
その問いを、自分の部下が、この人の戸口へ持ってきてしまった。
誠一は膝をそろえて、両手を床に付いた。
「申し訳ありませんでした。それは、あなたが答えることではありません」
頭を下げた。額が床板に近づく。板はひやりとしていた。
雨の音だけが、続いている。
いつ顔を上げるかは、自分で決めることではない。誠一はそのまま待った。
「……顔を、上げてください」
佳乃は立って、台所から麦茶を二つ持ってきた。冷たさがゆっくり喉を下りていく。
「千尋は、自分で決めたんでしょうか」
佳乃はコップの中を見ていた。
「まだ、分かりません」
誠一には、それしか言えなかった。
帰りぎわ、誠一は手帳の頁を一枚破って、自分の電話番号を書いた。
「何かあったら、かけてください。何もなくても、かまいません」
「……はい」
佳乃も番号を言った。誠一はそれを、手帳に書いた。
上着を腕に掛けたとき、佳乃の目が誠一のポケットへ行った。
ポケットから、白い手袋がはみ出していた。親指の付け根が、裂けたままだ。
佳乃は、その破れ目をしばらく見ていた。
雨は夕方に上がった。
誠一は理沙を乗せて、家へ帰った。助手席は、四日前に理沙が決めた位置のままだ。昼に一人で乗ったときも、誠一は座席を戻さなかった。
玄関の引き戸を開けると、濡れた庭の匂いがした。上がり口に、葉月が裸足で立っている。首には赤いストラップ。
「おかえり。はい、笑って」
誠一は鞄を下ろした。額のあたりに、まだ床板の冷たさが残っている。頬はなかなか動かなかった。
「今日は、時間かかるね」
「すまん」
「いいよ。待つから」
葉月は待った。
かしゃん。
「次、理沙さん」
「ただいま、戻りました」
理沙はしゃがんで靴をそろえ、誠一の革靴の向きも直した。立ち上がると、腕時計に右手を重ねて、爪先を見る。
葉月は構えたカメラを下ろした。
「ねえ、理沙さん。私、理沙さんのつむじばっかり撮ってる」
「つむじに、異状はありましたか」
「ありません。きれいなつむじです」
葉月は笑いかけて、途中でやめた。カメラを胸の前で両手で持つ。
「一回でいいから、見て」
玄関がしんとなった。軒から落ちるしずくの音だけが聞こえる。
理沙が顔を上げた。
カメラは見なかった。その上にある、葉月の顔を見た。
「見たら本当になる」
敬語ではなかった。早口でもなかった。
――水野が、敬語を外した。
誠一がそれを聞くのは、初めてだった。
葉月は口を開いて、何か言いかけて、閉じた。
「……分かった。分かんないけど、分かった」
カメラが上がる。理沙はもう俯いていた。腕時計の上で、右手の指が止まる。時計の革の帯だけが、古かった。
葉月の肩が止まった。
かしゃん。
「手を洗ってきます」
理沙は葉月のあとについて、廊下の奥へ行った。
誠一は土間に立ったままだった。背中のまん中が、冷えている。
昼、理沙は窓を見て「いいえ」と言った。
今は葉月の目を見て言った。
嘘ではない、ということだ。
――なら、何が本当になる。