第1話 通報
「通信指令から各局。自殺をほのめかす内容の通報あり」
壁のスピーカーが鳴ったとき、柴崎誠一は麦茶の湯のみを口へ運ぶところだった。
八月二十日、午後九時三十二分。刑事課に残っているのは、当直の誠一ひとりだ。
「対象は佐伯千尋、女性。本人から『死にたい』と連絡を受けた知人からの通報――」
声は続けて、町の名前と、アパートの名前と、部屋の番号を読み上げた。
誠一は湯のみを置いた。椅子の背から紺の上着をつかんで、階段を駆け下りる。
「柴崎さん、今の無線……」
一階で、若い当直が椅子から腰を浮かせていた。
「俺が出る。救急にも回してくれ」
「一人でですか? 水野さんは」
「非番だ。今ごろ、うちの玄関で娘のカメラの前に立たされてる」
「は?」
「毎晩の決まりだ」
言い終わる前に、裏口の扉を肩で押していた。
帰ってきた人を、玄関で一枚撮る。娘の葉月が、毎晩続けていることだ。部下の水野理沙は、今夜も俯いたまま撮られているだろう。
車に乗りこむ。窓から腕を出して、屋根に赤色灯を載せた。磁石が鉄に吸いついて、ごとん、と鳴る。
サイレンのスイッチを入れた。
音が夜の町へ広がっていく。前を走る軽自動車が左へ寄った。タクシーも寄った。道の真ん中が、一本開く。コンビニの前で、若い男がイヤホンを外してこっちを見た。
赤信号。速度を落として左右を見て、そのまま渡る。
――五年前は、これができなかった。
妻の葉子が危ない、と病院から電話が来た日。誠一は自分の車で走って、赤信号のたびに止まった。前の車の尾灯をにらんで、ハンドルを指でたたいた。病室に着いたときには、もう終わっていた。
今夜は違う。鳴らせる。道は開く。
「間に合えよ……」
ハンドルを握る大きな手が、汗で滑った。
死にたいと言った人は、まだ電話のそばにいるのか。それとも、もう――。
「まだ分からん」
声に出して、アクセルを踏みこんだ。
分からないうちは、間に合うほうに賭ける。それが誠一のやり方だった。
川沿いの道を折れて、細い通りを二つ曲がる。鉄の外階段がついた、二階建てのアパートが見えた。二階のいちばん奥の窓に、明かりがついている。
車を停めて、サイレンを切った。
急に静かになった。虫の声が戻ってくる。
暗い通りの先で、人影が一つ、角を曲がっていった。長い黒い袋を、肩に掛けている。誠一は、それを目の端で見ただけだった。
腕時計を見る。九時四十三分。
階段を駆け上がった。いちばん奥の扉の郵便受けに、紙の名札が差してある。手書きの丸い字で「佐伯」。
呼び鈴を押した。
「佐伯さん! 警察です、開けてください!」
返事がない。
扉をたたいた。薄い鉄の扉が大きな音を立てて、隣の窓に明かりがついた。
取っ手を回す。回らない。
鍵がかかっていた。
扉に耳を当てる。冷房の機械が、低くうなっていた。ほかには何も聞こえない。
「佐伯さん! 聞こえますか!」
自分の声が、大きくなっていくのが分かった。
扉の横に、朝顔の鉢が一つある。細い竹の支えに、つるが巻きついていた。夜だから、花は閉じている。
鉢の土が、黒く濡れていた。
誠一は階段を駆け下りた。一階の手前の部屋に「管理人」の札がある。
「警察です! 開けてください!」
戸をたたくと、寝巻きに薄い上着を引っかけた老人が顔を出した。
「な、なんだね。さっきからサイレンが……」
「二階の奥の部屋の、合鍵を貸してください」
「佐伯さんのかい? あの子が、どうか――」
「急いでください!」
老人はあわてて奥へ引っこんだ。引き出しを開ける音。閉める音。また別の引き出しを開ける音。
誠一は戸口で待った。
待つことしか、できなかった。
腕時計の秒針が回っていく。首の後ろを、汗が一筋落ちた。遠くで、救急車のサイレンが聞こえはじめる。
――早く。早くしてくれ。
「あった、あった。これだ」
老人が鍵の束を持って戻ってきた。輪に、十本あまりの鍵が下がっている。札の字はどれも薄れていた。
「二階の奥は、ええと、どれだったか……」
「貸してください!」
束をつかんで、階段を二段ずつ上がった。
一本目。鍵穴に入らない。
二本目。入ったが回らない。
「くそっ……」
指が太い。鍵が小さい。汗で滑る。
三本目。回らない。
救急車のサイレンが、通りの角を曲がってきた。赤い光が、階段の手すりを下から照らす。
「刑事さん、それ! その青い札のやつだ!」
追いついた老人が、息を切らして指さした。
青い札の鍵を差して、回す。
かちり。
扉が開いた。冷房の冷たい空気が、足首に流れてくる。
腕時計。九時四十九分。
玄関にサンダルが一足あった。かかとをそろえて、端に寄せてある。
「警察の方、下がって!」
救急隊が三人、階段を上がってきた。誠一は壁に背中をつけて、先に通した。
奥の部屋から、隊員の声が聞こえる。
「佐伯さん! 佐伯さん、聞こえますか!」
それが、胸を押しながら数を数える声に変わった。一、二、三、四。平らで、速くて、途切れない。
誠一は、自分が息を止めているのに気づいた。
数える声は、長く続いた。
担架が出てくるとき、誠一は扉を押さえていた。
「……どうだ」
隊員の一人が誠一の顔を見て、小さく首を動かした。助かるとも、だめだとも、言わなかった。
「搬送します」
救急車は、もう一度サイレンを鳴らして出ていった。あとから来た交番の若い巡査が、付き添って乗った。
誠一は白い手袋をはめた。親指の付け根で、縫い目がきしむ。署で配る手袋は、誠一の手にはいつも小さい。
部屋に残って、見て回った。物の位置を、手帳に書いた。当直の刑事の仕事だ。
十時半を過ぎたころ、その巡査から電話が来た。
「柴崎さん。……死亡が、確認されました」
若い声が、そこで一度つまった。
「分かった。お前は、そこにいてくれ。ご家族には、署から連絡が行く」
電話を切った。
今夜のうちに、どこかの家で電話が鳴る。誰かがそれを取る。五年前、誠一は取る側にいた。
通路に出て、手袋を外した。右の親指の付け根で、ぷつっ、と糸の切れる音がする。きしんでいた縫い目が、裂けたのだ。
喉の奥に、固いものがつかえている。つばを飲んでも、下りていかない。
通路には、もう誰もいなかった。
誠一は扉の前に立って、頭を下げた。
遅くなりました、とは言えなかった。聞いてくれる人が、もう中にいない。
冷房の機械が、まだ低くうなっている。部屋の主がいなくなっても、部屋を冷やしつづけていた。
――開けてやれなかった。
鍵の束を握って、三本も間違えた手だ。その大きな手が、今は体の横で、何も持たずに下がっている。
誠一は長いこと頭を上げなかった。
ようやく上げたとき、階段が鳴った。
鉄の段を、軽い足音が一つずつ上がってくる。
「……柴崎さん」
水野理沙が、通路の端に立っていた。
白いシャツに、後ろで一つに結んだ黒い髪。小さな鞄を、肩から斜めに掛けている。息が少し上がっていた。
「水野。お前、非番だろう」
「非番です」
理沙は早口で言った。
「署に電話をしたら、柴崎さんが出たと聞きました。以上です」
「以上じゃない。なんで署に電話した」
理沙は答えなかった。通路を歩いてきて、誠一の隣で止まる。扉を見て、それから郵便受けの名札を見た。
「お名前は」
「佐伯千尋」
理沙の唇が、一度だけ動いた。声は出なかった。
それから理沙は、朝顔の鉢の前にしゃがんだ。手は触れずに、土を見ている。
「濡れています」
「ああ」
「夕方に、水をやったんですね」
「……ああ」
「つぼみが二つあります。明日の朝、咲きます」
誠一は答えなかった。
扉をたたきながら、ずっと同じことを考えていた。死ぬと決めた人が、明日咲く花に水をやるだろうか。
理沙が立ち上がった。左手首の腕時計に、右手を重ねている。
「柴崎さん」
「何だ」
「この方は、処理されますか」
理沙は自殺という言葉を使わない。この部下がその言葉を口にするのを、誠一は一度も聞いたことがなかった。
「まだ分からん」
それしか、答えられなかった。
理沙が鞄を持ち直した。そのとき、鞄の口から小さな手帳が滑り出かけた。角がすり切れている。開いた最初の頁に、「水野」の二文字だけが見えた。理沙はすぐに押しこんで、鞄の口を閉じた。
誠一も自分の手帳を出した。老眼鏡を掛けて、今日の日付の下に書く。
午後九時三十二分 通報
午後九時四十三分 着
午後九時四十九分 開扉
「六分、ですね」
横からのぞいた理沙が、小さく言った。
「着いてから、扉が開くまで」
「……ああ」
鍵の束を握っていた、六分だった。サイレンは、その前からずっと、町じゅうに鳴っていた。
誠一は、下の二行のあいだに指を置いた。
この六分のどこかに、間に合う時間はあったのか。