プロローグ 玄関の二人
「はい、笑って」。家へ帰ると、まず娘に命令される。
柴崎誠一は、靴を片方脱ぎかけたまま固まった。
八月十九日の夜。玄関の引き戸を開けると、蚊取り線香の匂いがした。土間にはまだ昼の熱が残っている。庭で虫が鳴いていた。
上がり口に、娘の葉月が裸足で立っている。顔の前には、古いフィルムカメラ。首に掛けた赤いストラップが、電球の下でゆれていた。
「お父さん。笑って、って言ってるの」
「笑ってる」
「笑ってない。それ、取り調べの顔」
誠一は口の端を上げてみた。五十年使ってきた顔が、言うことをきかない。くたびれた紺の背広の肩にも、まだ力が入っていた。
「んだば、これでどうだ」
「『それなら』でしょ。また訛ってる」
「……それなら、これでどうだ」
「顔は、さっきと同じ」
それでも葉月は、急かさなかった。片目をつぶって、カメラの向こうで待っている。
誠一は鞄を土間に下ろした。背中に貼りついていたシャツが、ふっと離れる。台所のほうから、だしの匂いがしてきた。
――ああ、帰ってきた。
そう思ったら、頬が勝手にゆるんだ。
葉月の肩が、ぴたりと止まる。この子は、シャッターを切る前に必ず息を止める。
かしゃん。
乾いた音が、玄関に響いた。
「はい、お父さん終わり。次、理沙さん」
後ろで砂利が鳴った。
部下の水野理沙が、まだ戸の外に立っていた。白いシャツに、後ろで一つに結んだ黒い髪。片手に、帰り道で寄った店の袋を下げている。
「お邪魔します」
「『ただいま』でしょ」
父親の訛りを直すときと、同じ言い方だった。
理沙は敷居の手前で止まった。袋を右手から左手へ持ち替えて、また右手へ戻す。
「……ただいま、戻りました」
「なにそれ。報告?」
「報告です。水野、本日も異状なく戻りました」
早口だった。署でも理沙は早口だが、署では冗談を言わない。言うのはこの玄関でだけだ。誠一は鼻から短く息を出した。自分では笑ったつもりだった。
「はい、笑って」
葉月がカメラを構え直す。
理沙はレンズを見なかった。
しゃがんで自分の靴を脱ぎ、かかとをそろえる。それから、誠一が脱ぎ散らかした革靴へ手を伸ばした。
「おい、それは俺のだ」
「曲がっていますので、先に直します」
「曲がってねえ」
「曲がっています。右が十五度ほど」
「測ったのか」
「目測です」
「お父さん、負けてるよ」
カメラの向こうで、葉月が言った。
靴が三足、きれいに並んだ。それでも理沙は、顔を上げない。立ち上がると、左手首の腕時計に右手を重ねて、自分の爪先を見ていた。
葉月は何も言わなかった。
こっちを見て、とも、顔を上げて、とも言わない。父親のときと同じように、ただ待っている。裸足の指が、床板をつかんでいた。
電球のまわりを、蛾が一匹まわっている。
腕時計の上で、理沙の指が止まった。
葉月の肩も、止まった。
かしゃん。
写ったのは、俯いたままの理沙だ。顔を上げなくても、撮れればいい。葉月は、そういうことにしているらしい。
「はい、理沙さんも終わり」
カメラを下ろして、葉月は、ぷはっと息を吐いた。プールから顔を出した子どもみたいだった。
「毎晩毎晩、よく飽きないな」
「飽きるとかじゃないの。これは記録」
「何の記録だ」
「今日も帰ってきた記録」
葉月はカメラの背中を、指でとん、とたたいた。
葉月は十九になった。この春から、市内の芸術大学で写真を学んでいる。課題の写真はいくらでも人に見せるのに、玄関の一枚だけは誰にも見せないらしい。帰ってきたら一枚。二人そろって帰った夜は、二枚。
小さいころは、待つのが苦手な子だった。母親の帰りが十分遅れただけで、この玄関に座りこんで泣いた。
その子が今、毎晩ここに立って待っている。
「明日は当直だ」
誠一は言った。
「帰るのは、明後日の朝になる」
「じゃあ明日は、理沙さんだけだね」
「水野は非番だ。好きな時間に帰ってくる」
「早めに帰ります」
理沙はまだ少し下を向いていた。
「理沙さん、明日も撮るからね」
「……はい」
「顔、上げなくていいから。帰ってきてくれたら、それでいいの」
理沙は答えなかった。腕時計の上で、右手の指が一度だけ動いた。
葉月がカメラを、下駄箱の上に置く。
誠一の目は、いつものようにそこへ行った。
下駄箱の上にあるのは、二つだけだ。右の端に鍵を入れる木の皿。左の端に畳んだ藍色の手ぬぐい。その上がカメラの場所になっている。
どちらも、妻の葉子が決めた。
「鍵は、帰ってすぐ手が届くところ。カメラは、出かけるときに目に入るところ」
この家に越してきた日、葉子はそう言って笑った。五年前に葉子が亡くなってからも、誠一は一度も動かしていない。
誠一は車の鍵を、皿に入れた。葉月の自転車の鍵が、先に入っている。その隣に理沙も自分の鍵を置いた。木の底に金属が当たって、ちりん、と鳴る。
カメラは、葉子が若いころから使っていたものだ。角の黒い塗りがはげて、金色の地金がのぞいている。葉子の指が、いつも当たっていたところだった。
今は、葉月の指が同じところに当たる。
誠一は、そのはげた角から目を離せなくなった。
――あの日も、ここにあった。
病院から電話が来て、車を飛ばして、廊下を走った。病室の戸を開けたときには、もう終わっていた。葉子に間に合わなかった。
一人で帰ってきた玄関で、カメラは同じ場所に、同じ向きで置いてあった。持ち主の帰りを、待っているみたいに。
「お父さん」
葉月の声で、顔を上げた。
「これ、まだ見せてなかった」
葉月が下駄箱の引き出しから、紙の袋を出す。町の写真店の名前が刷ってあった。
袋の口を開けると、酸っぱいような、つんとする匂いがした。
「変な匂いだな」
「現像液の匂い。いい匂いでしょ」
「いい匂いではねえ」
「『ではない』」
葉月は写真を一枚抜いて、誠一に渡した。
先月の誠一だった。この玄関の、今夜と同じ場所に立っている。自分で思っていたより、ずっと疲れた顔だ。それでも口の端は、ちゃんと上がっていた。
裏を返すと、小さな紙が貼ってある。細い鉛筆の字だった。
――鞄を持つ手が、もうゆるんでいます。
「お店の人がね、毎回一枚だけ、一言つけてくれるの」
葉月は、自分がほめられたみたいな顔をしている。
「顔じゃなくて、手を見てるんだよ。すごくない?」
「どんな人だ」
「よく知らない。いつも奥の暗室にいて、あんまり出てこないから。でもね、この一言、毎回当たるの」
誠一は胸のポケットから老眼鏡を出して、もう一度表を見た。
本当だった。鞄を握る太い指が、半分ほどけている。写真の中の自分は、もう鞄を下ろしかけていた。
「……よく見てるな」
「でしょ。私、ここの一言が好きなんだ」
葉月は袋から、さらに何枚か出した。今度は理沙だった。
靴を脱いでいる理沙。袋を持ち替えている理沙。戸に手をかけて、鍵を確かめている理沙。
どの夜の理沙も、下を向いている。
こちらを見ている写真は、一枚もなかった。
いちばん下の一枚にだけ、裏に小さな紙が貼ってあった。先週、店から取ってきたぶんだという。
――顔を上げなくても、ここにいます。
「これね、理沙さんのにも書いてくれたの。初めてだよ」
葉月の声が、はずんでいた。
「水野」
「はい」
「お前の、全部下向きだな」
「そうですか」
理沙は、写真のほうを見ないで答えた。
「気づきませんでした。以上です」
「以上ってなんだ」
「報告の終わりです」
葉月が吹き出した。
「ごはん、できてるよ。冷やしうどん」
葉月が廊下を歩いていく。裸足の足音が、板の上を遠ざかっていった。
「手を洗ってきます」
理沙があとに続いた。誠一の横を通るときも、写真には目を向けなかった。
玄関に誠一だけが残った。
台所で水の音がする。葉月が何か言って、理沙が短く笑うのが聞こえた。
署では口の端も動かさない部下だ。それが、この家の奥では声を出して笑う。
その声を聞くたびに、誠一は胸の奥が少し軽くなる。この五年、この家で笑うのは葉月だけだった。
誠一は写真を袋に戻した。
撮られるのが苦手だ、とは前に聞いた。そこから先は、聞いていない。
なぜ、理沙はレンズを見ないのか。
誠一は、まだ訊いていなかった。